だ て し げ ざ ね
伊 達 成 実
〜おいたち〜
伊達成実は、永禄11年(1568)伊達実元(伊達稙宗の第五子)の長子として大森城(現福島県福島市大森)で生まれた。父実元41歳の時の子である。幼名を時宗丸と称した。母は伊達晴宗の女(名不詳、輝宗の妹)鏡清院である。出生の大森城は成実の祖父稙宗が築城したと伝えられる。父実元の兄である伊達晴宗が米沢に移ってから特に重要度が増した城であった。
前年の永禄10年(1567)には伊達政宗が伊達輝宗の長子として米沢城で生まれている。幼名を梵天丸と称した。(政宗は、5歳のとき、疱瘡の毒が眼に入り右目を失っている。後に独眼竜政宗の異名を持つ。)
成実と政宗の血縁関係は、成実からみて政宗は、父方では父の兄の孫すなわち従兄の子、母方では従兄という間柄である。政宗にとっては最も近い血族ということになる。
天正5年(1577)10月、梵天丸(政宗)は米沢城で元服の式を上げ藤次郎政宗と称し、時宗丸(成実)も天正7年12歳で大森城において元服、藤五郎成実と称した。成実の烏帽子親は輝宗といわれている。
成実が出生して青年期にかかる頃までに伊達氏を取り巻く周囲の状況及び天下の情勢は大きく動きつつあった。全国を統一しつつあった織田信長が家臣の明智光秀に襲われ本能寺で自害したのが天正10年(1582)6月のことである。明智光秀を討ち、信長の後継者の地位を固めた羽柴秀吉が急速に勢力を伸ばし西日本をほぼ手中に収め、東国では徳川家康が勢力を伸ばしていた。
仙道における伊達氏と周辺諸勢力の勢力分布、力関係は微妙で流動的であった。それぞれの勢力が同盟あるいは結合し南奥州の覇者の座を狙っていた。
天正12年(1584)10月、政宗は父輝宗から家督を譲られ伊達家の当主となった。父輝宗は米沢郊外の館山に隠居した。成実もこの年父実元から家督を譲られている。実元は八丁目城に58歳で隠居した。
〜仙道人取り橋の戦い〜
天正13年(1585)10月8日、政宗の父輝宗が憤死するという事件
が起こった。二本松城主畠山義継によって、輝宗が宮森城から拉致され二本松に連れて行かれそうになった。この時政宗は鷹狩りで不在、成実と留守政景は輝宗の傍にいたがとっさのことで手出しが出来ず、阿武隈河畔の高田原で、結果的に、輝宗、義継とも銃殺されたという事件である。政宗はその報復として二本松城攻略のため軍を向けた。
11月、二本松を助けるため、佐竹・芦名・石川・岩城・白河諸氏の3万の軍勢が須賀川方面に進みつつあるという情報が入った。政宗は8千の兵を率い16日には本宮(現福島県本宮市)に陣を敷き、敵を迎えた。これが伊達政宗の生涯における最大の激戦で、伊達家の興亡をかけた「仙道人取橋の戦い」である。政宗は本宮南方の観音堂を背にして本陣を張り敵軍を迎えた。
伊達成実は左翼最前線、瀬戸川を前に街道脇の小山に陣取った。高倉城と人取橋が激戦の場となった。
戦闘は高倉城の前方で開始された。ここを守っていた富塚近江、伊藤肥前等は無勢のため敗退した。前田沢から押し寄せた一隊は政宗の本陣の前衛隊と衝突した。本陣の前衛鬼庭左月は70歳の老齢ながら大奮闘したが大勢の敵にかなわずついに討死した。
「成実記」にはこの合戦の様子が次のように書かれている。
「新井から進んできた敵と対陣していたが、味方は総くずれで成実の陣所の下を後方へと退却し、成実の隊はまったく孤立した。家来の下郡山内記というものが馬を乗りかけて来て『観音堂の本陣は崩れた。急ぎここを退却したまえ』と大声で叫びながら小旗を取って歩卒のものに渡した。
しかし、成実は内記から小旗を奪い返し『こうなったらたとえ退却した所で敗れることはおなじだ。ここで討死するのが本望だ。退却はしないぞ。』と退かなかった。
この戦いは武分かれ(引き分け)に終わったが、一陣地も取られなかった。しかし、成実の家中の伊庭野遠江、北下野はじめ十四人が討死した。敵の首も九つ取った。」
この日の戦いは、伊達勢が総崩れする中で、成実ひとりがふみとどまって敵を退けたのである。政宗は、成実の武勇にいたく感激し、その夜、山路淡路を使者に直筆の感状をおくり、「本日の働き比類なき武功なり」とほめたたえ、次の日の合戦の備えをするように命じた。
翌日、連合軍は再びせめてはこなかった。連合軍の中心であった佐竹氏の内部に事故が起こったためといわれる。伊達家は成実の奮戦により危ない所を逃れたわけである。
現在、福島県本宮町の国道四号線バイパス、瀬戸川という狭い川をはさんだ西側の田の中に鬼庭左月の墓碑と人取橋合戦の説明板がたっている。
〜二本松城・角田城時代の成実〜
天正14年(1586)、政宗は相馬義胤の調停を受け入れ二本松城を接収した。そして、二本松城は成実を城主とし、大森城は片倉小十郎景綱を城主とした。天正15年(1587)、成実の父実元が八丁目城で死去し、陽林寺(現福島県福島市内)に葬られた。61歳であった。
天正17年(1589)、政宗は各方面に攻勢に出た。この年の5月、亘理の海で遊んだという。政宗が海を見たのはこれが初めてだろうといわれている。翌6月、磐梯山の麓の摺上原にて、会津の名門である芦名氏と激突した。成実はこの戦いでも奮戦し、伊達家の勝利に終わった。政宗は名実ともに奥羽の覇者となった。
天正18年(1589)、北条氏を攻めていた豊臣秀吉から政宗に小田原への参陣が求められた。談合が重ねられたが、諸臣が積極的な発言をしない中でひとり成実のみ「太閤の東下は既に昨冬から手紙で告げられている。今から行ってももう遅い。往ってはずかしめをうけるよりはここにいて天下に優劣を争うほうがいい。我に武装した兵は百万もある、地の利によって戦えば、どうして烏合の衆を怖れる必要があろうか。」と意見した。皆はその大胆な意見に感服したという。このとき、参陣を促す小十郎と意見が対立したといわれている。
政宗は最終的に小十郎の意見を聞き、小田原に参陣した。参陣に際し、成実は留守居の任についた。政宗に万が一のことがあったとき、成実が伊達家最後の砦となったのである。
天下の推移を見るとき、結果的には政宗の天下を見る目が成実より広かったことは否定できないが、成実の言も戦略的に成り立ち自分の意見を堂々と主張したことは成実の生き方を示す。